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【ONTA KILNS FOLK POTTERY Vol.2】小鹿田陶窯の史的背景
2010年04月24日
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ONTA KILNS FOLK POTTERY‐Vol.2
小鹿田陶窯の史的背景
九州の陶窯を技術分類の面から考察すると,一般的には古唐津の陶技が源流である.と言ってもその基調は朝鮮李朝中期の窯芸である.
古唐津の陶技は肥前一円は言うまでもなく,古上野(あがの),古高取(たかとり)の窯場に直接的な影響を与え,工人の交流は言うまでもなく,窯主的立場の
「頭領」が16世紀末から17世紀初頭に肥前唐津領内から移動したことも想像できる.また肥後領内にも古唐津の陶技が間接的に導入されており,ことに古上野の系譜の工人が豊前領内より移動した事で直接の陶技は分派でも本流を継承している.
南九州の薩摩,島津領内の諸窯の陶技は原点は李朝中期の窯芸であるので成形上共通性があるが,陶工の流れを異にして,導入経路や,陶工集団は異なる.
筑前黒田領内の古高取窯は1600年前後に開窯期を迎えその陶技の基調は古唐津系であるが17世紀の当初には早くも国焼陶窯として先行していてる.筑前内の江戸期の諸窯は,殆ど古高取系であるが多様性を温存していた.日田皿山の小鹿田窯も高取系の分派であるから,小鹿田の系譜や,陶技の特色を知るには,高取系諸窯の変遷推移や,基調陶技内容を考察しなければならない.
古高取系の基点は筑前国内,鞍手の鷹取山の西麓の永満寺宅間窯で,李朝系「工人頭」あるいは陶工団の頭領的位置付けがなされ,八山夫妻の開窯が定説に近い.摺り鉢,皿碗類,壷類,徳利類の日常雑器が中心で,僅かに茶陶意識のある茶入れ等が未完成ながら焼成されていた.
1614年鷹取山の内ケ磯に移窯して,ここで茶陶高取窯の基礎が出来,冊器と茶陶が平行し,古唐津系,あるいは備前系の意匠形状を「手頭」とした茶陶が焼成された.
用いられた釉薬も多様に渡り,黒釉,飴釉,緑釉,青なまし釉,等で,古唐津系と共通した窯変効果も見られる.この窯である程度国焼茶陶としての基礎づけがなされ,領主黒田の御庭窯的要素が加味された.
1623年筑前領主黒田長政が他界すると高取系の陶工集団は朝鮮への帰国を願い出すが許されず嘉穂郡の山田窯で雑器を中心に焼成する.1630年再び黒田藩にかかえられ,幸袋の白幡山に移窯した.この時高取八蔵父子は京都伏見で小堀遠州の指導を受け茶陶高取の面目を保ち,筑前国焼としての格調高い位置づけがなされた.そして茶陶的正確が主となり,雑器的正確は従となった.
注意点は今日古唐津として伝世している矢筈口の水指,耳付水指類に古高取の内磯ケ窯での焼成品が混入され分類されている.
高取系の陶窯の大幅な転換期は1665年筑前朝倉郡の山境小石原鼓窯への移窯である.その理由は不明だが良土を求めて陶工が安住の地を選んだと伝えられている.
1685年には高取八郎右エ門が10石6人扶持の俸禄を受けているので藩の御庭焼的存在であったと思われる.
小石原には鼓窯の他に小石原皿山と総称される中野皿山,火口谷等の古窯が確認され,この頃は肥前陶工との交流が認められる.
中野窯は茶器と雑器を混成し,火口窯は雑器中心であったと伝えられている.江戸後期の小石原窯は皿山敵規模の中で庶民生活用の雑器を焼成し,筑前,筑後,豊後にも需要があった.またこの頃すでに寄合窯が営まれ,半農半工の季節労働ながらもある程度の規模で量産され,皿山も整備されていた事を意味している.
日田の小鹿田の窯場は高取系小石原の分派で江戸中期1705年に小石原の陶工達に寄って開窯されたと伝えられるので,小鹿田窯の技術基点は小石原高取系である.
従って,江戸中期の小石原の皿山の伝統技法,作陶慣習,生業形態,生活習慣がそのまま小鹿田に継承されたと思われる.
ただ小石原は民窯的性格だが黒田藩の御用茶陶を焼成した高取一派の窯であったが,日田の皿山と言われる現在の小鹿田焼の窯場には少なくとも江戸中期の開窯創業期から昭和30年前後までは,茶陶的要素は全然加味されなかったことを注視する事が小鹿田窯の確かな位置づけをする上で重要である.
小鹿田窯の史的背景はさかのぼれば古高取の開窯期で,焦点をしぼれば江戸中期の元禄,宝永,享保の小石原皿山である.
参考文献:「小鹿田の伝統と陶技」大分県文化財調査報告書第32輯
大分県教育委員会S50.3.25発行
九州窯芸史上の小鹿田陶窯...永竹 威 氏 論文よりの抜粋,要約